男と女 

 

 人間は神によって創造されました。人間は神のかたちに創られました。それは、男と女に創られたのです(創世記1章26,27節)。神は創られたものをご覧になって、「極めて良い」と評価されました。神が創られたもので、良くないと言われたものはありません。神にとって、失敗ということはないのです。このメッセージを受け止めて欲しいと思います。神様は私たちのことを、ご自身にとって、価高く貴い存在であると言って下さるのです(イザヤ書43章4節)。人間が男と女という形に創られたということは、人間はみな同じ形に創られたのではないということを表わしています。それが神のかたちであるということは、違うもの同士が一つになることが出来るということであり、それによって新しいものを生み出すことが出来るということです。それが愛でしょう。

 

 このことを、創世記2章では、違った角度から説明しています。先ず18節で、「人が独りでいるのは良くない」という言葉です。神はご自身が創造されたものを評価されて、極めて良いと言われましたが、ここで初めて、「良くない」と言われています。孤独は、神の創造の目的に添わないのです。そこで、「彼に合う助ける者を造ろう」と言われました。助ける者とは、文字通りの「助手(healper)」ではありません。むしろ、共に歩む仲間、パートナーです。
 また、聖書で助ける者というのは、誰よりもまず、神様のことです。主なる神こそ、助ける者なのです。本当に助けが必要なとき、「神様」と呼べば、私たちに必要な助けをお与え下さいます。そして助け主なる神は、ご自分に代わて私たちを助ける者をお与え下さるのです。私たちに与えられる仲間、パートナーとは、そのようにかけがえのない存在なのです。お互いに大切にしなければなりません。
 人は、自分に与えられたもう一人の人を見たとき、それを「女」と呼びました(23節)。ここには1章の男と女という言葉とは違う単語が用いられています。

 日本語では明確ではありませんが、原典のヘブライ語で読めば、男女が対となっていることが分かります。男をイーシュ、女をイシャーと言います(新共同訳聖書を参照)。
 少々理屈っぽいかも知れませんが、よく聞いて下さい。これは、ヘブライ語アルファベットの最初の文字アレフと、21番目の文字シンを共通項に持っています。それに主なる神の固有名詞ヤハウェの最初の文字ヨードをとって、アレフとシンの間においたものが「男(イーシュ:アレフ、ヨード、シン)」、ヤハウェの最後の文字へーをとって、シンの後ろにおいたものが「女(イシャー:アレフ、シン、ヘー)」なのです。

 文字の上から、男女は3分の2が共通で、3分の1が違う。その違いは、別々にしていれば単なる違いだけれども、一つにすると、ヨードとヘーで「ヤハ」となります。これはヤハウェの短縮形と考えられています。

 ハレルヤという言葉の「ヤ」も、このヨードとヘーです。聖書の中にもたくさん出てきて、ヤハウェと同様に「主」と訳されています。だから、二人が一つとなるとき、そこに主なる神もおられて、神の創造の働きが進められ、いのちの業が広げられていくわけです。
 主イエスも、「二人が地上で心を一つにして求めるなら、あなたがたの天の父はそれをかなえて下さる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われています(マタイ福音書18章19,20節)。主が共におられる集いの中で、祈りが聞かれるのです。夫婦で、家族で一つになって、神を求め、神に従って参りましょう。祝福が豊かにありますように。


*詩編119編を見ると、アルファベットによる詩と書いてあって、(アレフ)、9節の前に(ベト)、17節の前に(ギメル)という具合にカタカナが書かれていますが、これがヘブライ語のアルファベットです。アルファベットによる詩とは、(アレフ)と書かれた段落は、各節の文頭の単語はアレフという文字で始まっている、(ベト)の段落は各節の文頭の単語がベトで始まっている、というものです。各段落8節ずつあります。ヘブライ語のアルファベットは22文字あります。だから、詩編119編は22文字×8節で、合計176節まであるわけです。そこを見ると、ヘブライ語の最初の文字がアレフ、21番目はシン、5番目にへー、10番目にヨドとあるのが分かります。

 

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