教会

 

 「教会」というのはキリスト教以外でも使われるものですが、聖書の中で使われている「教会」は、エクレシアというギリシャ語を翻訳したものです。もともとエクレシア(ekklhsia)は、エク(ek)が「外へ(out of)」、クレシア(klhsia)が「呼ぶ(call)」で、呼び出すという意味の言葉です。そこで、ギリシャ市民の中から選ばれたものということから、一般に「集会」とか「議会」という意味で用いられていました。この語が聖書に現われるのは、ギリシャ語訳旧約聖書(セプチュアジンタ)で、「カーハール(集会)」の訳語に当てられました。そして、パウロの手紙以降のキリスト教の文書には、クリスチャンの集まりを公式に、エクレシア・教会と表明しています。
 言葉の上からは、エクレシア・教会は信徒の集まりをさしているのですが、現在では信徒が集まる建物をさすことが多いようです。それは、英語のチャーチ(church) 独語のキルヘ(Kirche) などの語源が、キュリアコン(主に属する物・建物)という言葉であることも一因でしょう。はじめは信徒の家などを集まりの場にしていて、その集まりが教会と呼ばれたものを、やがて独自の建物を取得したり建築するようになって、そこが固定的に教会と呼ばれるようになったというのが、実際のところではないでしょうか。

 主イエスは、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16章18節)と言われました。ここで主イエスが「岩」と言われているのは、主イエスを「メシア、生ける神の子」と信じる信仰のことです。その信仰を土台として、その上に「わたしの教会」を建てると言われました。教会は、主イエスの御心によって建てられるのです。だから主イエスは、教会を「わたしの教会」と呼んでおられます。大牟田教会も、主イエスが「わたしの教会」と呼んで下さる教会です。それは、教会を構成している信徒一人一人が、主イエスを「わたしの主、わたしの神」と信じているからです。
 そして、主イエスの教会は陰府の力にも勝つのです。死んだらおしまい、じゃない。死んでもおしまいにならない。教会は死んでも続く。甦りであり命であられる主イエスの教会だからです。
 あなたも、主イエスを信じて、教会を構成するお一人になられませんか。

 

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