主の祈り

 

「天にまします我らの父よ、
 願わくは、御名をあがめさせたまえ。
 御国を来たらせたまえ。
 御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。
 われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。
 われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。
 われらを試みに会わせず、悪より救い出したまえ。
 国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」。

 

  日曜日に教会に行けば、必ず一度はみんなで唱えるというほど、ポピュラーな祈りです。教会学校(日曜学校というところもあります)や、キリスト教主義の幼稚園、学校で覚えた人もたくさんいるのではないでしょうか。この祈りを「主の祈り」と言います。マタイによる福音書6章9~13節、ルカによる福音書11章2~4節に、主の祈りが載っています。
 この祈りの文章は明治時代の元訳と呼ばれる聖書の言葉から作られたので、分かりにくい言葉もあるから、現代の表現にした方がよいのではないかということで、30年ほど前に口語文(新共同訳)の祈りが作られました。しかし、それはまだ、よく広まってはいません。


 この祈りを何故「主の祈り」というのかというと、①主イエスがいつも祈っておられた祈りであること、②弟子たちに、このように祈るようにと教えて下さったこと、の二つの理由です。

 

 主イエスは、よく祈られました。朝早く、また夜を徹して。そして、決まった時間に決まった場所で祈るという祈りの習慣も持っておられたようです。ルカによる福音書22章39節には、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると・・・」とあり、続く40節には「いつもの場所に来ると・・」と記されています。

 

 最後の晩餐のあと、ゲッセマネと呼ばれるところで主イエスは激しい祈りをささげられました。ここがそのいつもの場所だったのです。そのとき、主イエスは苦しみ悶えて切に祈られたので、汗が血の滴りのように落ちたと、聖書に記されています(ルカ福音書22章44節)。

 しかし、弟子たちは主イエスと一緒に目を覚まして祈ることが出来ませんでした。それなのに、聖書には主イエスが祈られた祈りの言葉が記されています。それは、彼らが主イエスがいつも祈られる祈りの言葉を知っていたからです。つまり、主イエスはいつも「主の祈り」を祈っておられたわけです。

 

 その祈りを、私たちも祈るようにと教えて下さいました。教会に来たときだけでなく、家にいるときも、みんなで祈るだけでなく、一人ででも、そして、自分では祈りの言葉が出てこないようなときにも、この祈りをすればよいのです。そして、何故主イエスがこの祈りをいつもしておられたのか、何故私たちにも祈るように教えて下さったのか、この祈りの言葉について、考えてみて下さい。祈りながら言葉の意味を味わってみて下さい。


 主イエスがオリーブ山のゲッセマネの園で三度祈られたように、一日に主の祈りを三度祈ってみるというのも、とてもよいことだと思います。

 

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