バプテストとは

 

 現在、国内にはカトリック教会1100弱、プロテスタント160余教団・教派8400余教会、合計9500ほどの教会があります。キリスト教2000年の歴史の中で、5~6世紀ごろ、カトリックが東と西に分裂。16世紀に西ローマ・カトリックに対し、プロテスタント教会が分離独立。その後、プロテスタント各派は、より聖書に忠実な組織であろうとして、離合集散を重ねてきました。
 ご承知のように、日本にキリスト教をもたらしたのはカトリック教会が早く、地球を東回りに、1549年、フランシスコ・ザビエルが来日し、短い期間で多くの信徒を獲得しました。その後、日本が鎖国して、国内の教会は封鎖されてしまいました。少数の信徒が隠れて長い徳川の時代を生き抜いたことが報告されています。明治維新後、今度は西回りに多数のプロテスタント教会宣教師が来日し、布教に努めました。

 

 わが大牟田バプテスト教会の属するバプテスト派は、17世紀の英国で生まれました。ルターやカルビンの宗教改革を父とし、英国の教会改革者の運動を母として生み出されたのです。その特徴は、第一に、聖書主義です。信仰生活の基本となる正典は、聖書のみ。旧約39巻、新約27巻で構成される聖書は、神様の霊的な働きを通して記された、誤りなき神の言葉である、という主張です。第二は万人祭司主義です。牧師と信徒の間に身分的な上下関係はなく、同等の権利をもって教会に仕えます。そこで、教会の最高議決機関は信徒総会で、教会の運営は総会で選出された執事、委員により、民主的に行われます。牧師も総会によって任命されます。

 

 バプテストという名前の由来ですが、①幼児洗礼を認めず、②自覚的に信仰を表明した人に全身を水に浸す浸礼(バプテスマ)を施すことを主張したことから、バプテスト[バプテスマ主義者]のあだ名がつけられました。自らバプテストと名乗ったのではなく、他の人々から、「水につけることに狂っている奴ら」と揶揄される名前だったのです。それを自分たちの名前として受け入れたのは、全身を水に浸すバプテスマの形が、聖書に記されているままの正しい形式であるので、聖書主義の観点からそれを主張しようという強い決意があったのだと思います。

 

 少しずつバプテスト教会の数が増えていく中で、「天路歴程」という名著を遺したジョン・バンヤンをはじめ、優れた信仰者、説教者を生み出しています。その後、アメリカに渡ったバプテスト教会の働きは目覚しく、アメリカ最大の教派になりました。特に著名な神学者や有力な指導者を持たず、信徒が伝道の先頭に立ち、また教会学校の働きによって、開拓地が西に拡がるのに合わせて伝道の働きも拡大して行ったのです。

 

 日本には、1860年にローラー宣教師が派遣されますが、途中で難破、乗船もろとも行方不明になられました。それから30年後の1889年にマコーラム、ブランソン両宣教師が来日して、最初に大阪に教会を設立、ついで九州各地に教会を作りました。戦時中、軍国政府により、日本基督教団が組織され、バプテストもその中に組み込まれましたが、終戦後の1947年に日本基督教団から独立し、16教会をもって福岡において日本バプテスト連盟を結成しました。わが大牟田教会もその中の一つでした。その後、「全日本にキリストの光を」をスローガンとして掲げ、全国都道府県庁所在地を拠点として伝道・教会開拓を行い、今日、330の教会が設立されています。

 

 私たちクリスチャンの多くは、各教団教派の主義主張、信条を学んで、教会を選んだりしていません。自分が最初に通った教会が、偶然、バプテスト教会だったというようなことだと思います。ただ、私たちのほうでは偶然のようではあっても、神様のほうでは、私たちがイエス・キリストを信じる信仰に導くために、ふさわしい教会と出会うことができるようにしておられるのです。そして、神様のなさることに誤りはないと信じます。私たちの人生は、決して偶然に発生したものではなく、両親の愛を通り道として、神様が創り出して下さったものです。聖書は、神が天地のすべてのものを創造された、と主張しています。であれば、教会や学校、病院などの働きを通して、牧師やクリスチャンと出会ったというのも、決して偶然ではないでしょう。今、この文章を読んでいることも、偶然ではないのでは?

 

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