アダム

 

 以前、もと西南学院大学神学部教授の小林洋一先生から、「人はいつアダムになるのか」という論文の抜き刷りを頂きました。なにやら意味ありげな論文のテーマですが、「男と女」という前回のテーマにも関連していますので、今回はこの「アダム」をとりあげてみました。

 ご承知の通り「アダム」は、創世記に記されている、神が創られた最初の人間です。
 ヘブライ語の「アダム(原語どおりに発音すればアーダーム)」は、もともと、アーダマーという言葉に由来しています。アーダマーとは、「土」という意味です。人間は土、すなわちアーダマーから創られましたので、アダム(アーダーム)というわけです。

 このアダム(アーダーム)という言葉が、ときに一般名詞として「人」、「男」と訳され、そしてまた、ときに固有名詞として「アダム」と訳されるのです。聖書によって、同じ言葉を「人」と訳したり、「アダム」と訳したりしています。

 最初のアダムという単語は創世記1章26節に出てきますが、それを固有名詞として「アダム」と訳している聖書はありません。

 一番気の早いのは、ヘブライ語をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書という聖書で、2章16節の「人」を「アダム」と訳しています。文語訳聖書は2章19節、新共同訳聖書は3章8節、新改訳聖書は3章17節、そして最も気の長いのは口語訳聖書などで、4章25節になって初めて「アダム」が登場してきます。
 一般にヘブライ語の文法では、固有名詞には冠詞をつけないというルールがあるのですが、例外的なものも出て来るので、翻訳者泣かせのようです。2章のアーダームを固有名詞として訳す根拠となる議論はあまりに細かくて難しくなるのでとばします。

 3章でアダムが固有名詞として出て来るというのは、彼の伴侶として与えられた女性に「エバ」という名前が与えられているのに、男性の名前が出て来ないのはおかしいという考えでしょう。それに対して、5章には「アダムの系図」として大きな系図が登場して来ます。その直前の4章25節以下も、アダム、セト、エノシュという小さな系図になっています。だから、これを固有名詞として訳し、それ以前は一般名詞とするという考え方です。

 小林先生は、色々な説を挙げた上で、この最後の4章25節で初めて「人」が「アダム」となったと考えるのが一番妥当な解釈だろうという結論を出しておられます。私には学術的、専門的なことはよく分かりません。ただ、一般名詞の「人」ではなく、固有名詞の「アダム」として、神が一人一人の名を呼んでそのなしたことの責任を問うておられると考えると、新共同訳が3章8節から「アダム」と訳していることにも大きな意味があると思います。
 その箇所で神はアダムを、「どこにいるのか」と呼ばれます。かくれんぼしているのではありません。神は私たちのことをよくご存知です。どこにいるのかと探しておられるのではなく、何故そんなところにいるのか、何故そんなことをしているのかと尋ねておられる言葉だと思います。
 神の目は決してつり上がってはいないでしょう。むしろ、悲しい目をしておられるのではないでしょうか。エデンの園で自由にのびのびと行動できたアダムが、神の足音を聞いてこそこそと隠れるようになったのです。神との交わりで隠し立てすることなどなかったアダムが、神の前に出て来られなくなったのです。神は、なぜそのようなことになったのか、どこから落ちたのか、本来の「人」は神の御前にどのような存在であったのかを思い出させようとしておられるのです。本来のあるべき姿に立ち帰るように、もう一度原点に戻るようにと、招いておられるのです。


 今日も神は私たちの名を呼びながら、「どこにいるのか」と尋ねておられるのではないでしょうか。その時、「はい、わたしはここにおります。主よ、お呼びでしたか。何か御用でしょうか。何でもお話下さい」と応答できる者でありたいと思います。

 

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